ご挨拶
早いもので、私が93年6月に武村正義氏らと10人で自民党を離党、「新党・さきがけ」を結成してから四半世紀が経ちました。そして、同党が解党してからも既に、20年を経過しています。
90年代初頭は歴史的な激動期。冷戦の終結、55年体制の終焉、バブルの崩壊が重なり、数多くの小政党が離合集散を繰り返しました。
その中にあって、新党さきがけの存在が未だ多くの人に記憶されているのは、うれしいことです。
彗星のように現れ、彗星のように消えたと言われる、さきがけですが、打ち出した理念や原則に忠実であろうとしたことが、今もって多くの人の心に刻まれている理由だと思います。
結党の当日に掲げた「さきがけの理念」は別掲の五原則ですが、現代でもそれを地方選挙などで政治姿勢として掲げている人もいます。
さきがけの理念は、「保守本流の理念」を意識して起草しました。当時、自民党は時代の大転換期に際しても、”構造汚職”にまみれて、日本の新しい進路の設定に指導性を発揮できずにいました。少なくとも、私の離党動機はその一点にありました。
95年の6月、私は”さきがけの理念”を広めようと、「さきがけ塾」を立ち上げ、塾長を務めました。この塾は、さきがけの党内組織であったため、解党により閉塾となりましたが、卒塾生の中から多くの人材が育ちそれぞれの分野で活躍しています。互いに理念を共有してきたためか、今も同志的関係を維持しているのは特筆すべきことでしょう。
私は96年に国会を離れましたが、その後も塾生たちとの交流は続き、彼らの主導により”民権塾”が開塾されました。当初も塾名については、”さきがけ塾”の再開が順当のようでしたが、解党、閉塾から未だ間もなく、さしさわりを懸念して、遠慮しました。
この民権塾はかつてのさきがけの多くの同志の熱心な協力を得て約20年も続いてきました。
天皇の御退位により、平成史が閉じるということになったとき、私はこの大きな転機を、自分自身と塾の転機にしなければならないと考えるようになりました。
長く副塾長として協力して頂いた五明紀春君に相談したところ全面的な賛同を得、今日に至った次第です。今までの塾の事務局を担当してくれた皆さんにはあらためて敬意と感謝を申し上げます。
今回こそは”さきがけ”の名を入れてほしいという声が大勢を占め、塾名を新たに”さきがけの理念”を塾訓とする「さきがけ新塾」としました。
五明君にも引き続いて副塾長をお願いしたところ快諾いただき、事務局長には、土井裕之さいたま市議、補佐には野本怜子さんに引き受けていただきました。
今後とも多くの方々の参加をお待ちしています。
さきがけ新塾塾長
田中秀征
令和二年一月
この度、さきがけ新塾の出発に際し、前身の民権塾に引き続き副塾長を務めさせていただくことになりました。田中秀征塾長の下、塾の発展に微力を尽くして参りたく存じます。どうぞ宜しくお願いします。
さきがけ新塾副塾長
五明紀春