第三回 『藤井聡太君の対局に立ち合う』
7月2日(土)に、沼津の御用邸で行われた将棋の棋聖戦第三局の対局開始に立ち合って、ナマの藤井聡太君に初めて会うことができた。
対局室は茶室風の和室。9時の対局開始20分前に、立合人やメディアの人たちが位置に付き、対局者の入室を待つ。
タイトル戦では、挑戦者が先に入室して下座に着くのが不文律。挑戦者が座ってからタイトル保持者が殿の間を背負って上座に着く。
挑戦者の渡辺明名人が入室して、扇子などを置くと、しばらくして藤井棋聖が登場。意外に背が高くひょろひょろした感じ。現在、最強と言われる名人を前にして臆するところがない。先手の名人が7六歩と初手を指して、すぐ藤井君が指すと思ったら、お茶に手が伸びた。前日、講義後福山から駆け付けたから寝不足。そこへ既に30分近く正座を続けているから足のしびれががまんの限界。斜め前にいる主催者のサンケイ新聞の社長が腰を上げたり下げたりして限界を越えたようだから、腰を上げたとき、そばにあった座布団を折って間に押し込んでやった。
両者が一手ずつ指したところで、正立合人のプロ棋士と記録係を残して全員退場となる。
僕が初手に立ち合うのは、沼津での対局(棋聖戦五番勝負の第三局)を提案したことによるのだろう。棋聖のタイトルは一昨年まで有名な羽生善治。一昨年に渡辺に奪われ、昨年(コロナのため東京開催)渡辺が藤井に奪取された。
さて、例年なら、大盤解説会場を設営して、多くの人が集まり、プロの解説を聞いて楽しむのだが、コロナのため昨年からそれがない。
そもそも、僕と沼津との縁は、大学時代に寮生活を共にした大の親友が沼津の名刹の住職をしているからだ。
沼津にはかつて若山牧水が住み、彼の寺に墓がある。それに彼の音頭で若山牧水館がつくられ彼が館長をしている。
実は、対局が終わるのを待たずに帰京するつもりだったが、ちょうど熱海の土石流の日。沼津も大雨で新幹線も不通になった。
友人は牧水館の中で僕が対局を観られるようにはからってくれたので終局まで観戦することができた。
結果は、藤井棋聖が三連勝してタイトル初防衛ということになった。
印象的だったのは藤井の持ち時間の使い方だ。渡辺が1時間近く残しているのにその10分の1の時間もない。最終盤になって残り3分。それから正確に指して勝ち切った。終盤まで渡辺有利と思ったし、画面に表れるAIの評価も渡辺有利が長かった。しかし、対局が終わってからの渡辺の感想は「ずっと押されていた」というのだから驚く。それなら〝読み“はAIより渡辺が上で、その渡辺より藤井が上ということになる。
二人に会ったり、話したりすることは全く期待していなかったが、幸運にも偶然二人と言葉をかわすことができた。
対局が終わってからホテルで藤井君の記者会見があり、僕もそれに加わって聞いた。終わってからエレベーター前で偶然に会ったのだ。僕が
「おめでとう」と言うと、
「ありがとうございます」とテレた顔で言葉を返した。僕がエレベーターの同乗を遠慮したから、ただそれだけのことだ。しかしナマ聡太に会って言葉をかわした喜びは大きい。
おまけに翌日、新幹線が動いて東京に向かったら、何と渡辺名人と乗り合わせたのだ。席に座っている彼に、
「ごくろうさん。残念でしたね。またがんばって下さい」と言うと、
「ありがとうございます。」と笑顔で言葉を返した。彼とは沼津で何度か会って話したことがある。彼の奥さんはマンガ家で、彼の日常を面白おかしくマンガにしてしまうらしい。
僕が沼津になじむのは、親友がいるからというばかりではない。尊敬する石橋湛山先生の選挙区の中心だからだ。
沼津の海岸には千本松原という絶景の松林がある。ここから見る富士は随一と地元の人たちは言う。
その松林の中に、湛山先生が地元に帰ったときに泊まったり、会合をしたりした「沼津倶楽部」が明治に建てられた姿を残している。国の有形文化財である見事な茶室で、ここが一昨年までは棋聖戦の対局場となってきた。
ここには立派なホテル、レストランが併設されているが、湛山ゆかりの社団法人沼津倶楽部は、やはり友人が理事長を押し付けられている。
この千本松から湛山先生は世界や日本の将来を考えて富士を見ていたのか。この椅子に湛山先生は座って政権構想を練っていたのかと考えると感慨無量のものがある。一年に一度沼津を訪ねるのは僕の楽しみにとなっている。
2021.7.12