第二十一回 『田中角栄元首相の思い出』

 

①没後30年に思う

 

 この12月16日は、田中角栄元首相の没後30年の命日であった。

 僕は30年前のこの日のことをよく覚えている。

 夜遅く細川護熙首相に、すぐ官邸に来るようにと呼び出され、タクシーを拾って駆けつけた。電話では用件は聴かなかったが、その声からただならぬことと思って緊張した。

 駆けつけると細川さんもいつになく興奮しているように見えた。

 細川さんによると、先きほど小沢一郎さんがやってきて細川さんの政権運営に厳しい注文を付けたと言う。それについて対応策を協議したいということであった。

 この件は細川さんの内訟録をはじめ多くの書籍などでも触れられている。

 僕が思うに、小沢さんは、親とも言うべき角栄元首相の他界に、気が動転したのではないか。

 角栄元首相には、真紀子さんの兄に当る長男がいたが幼くして亡くなった。その年が小沢さんと同じなので、小沢さんを実の子ように大切にしていたと言う。

 当時の角栄元首相は、二段階の不幸に見舞われ往年の神通力は衰えていたものの、まだ党内での存在感は他を圧倒していた。

 第一の不幸は、もちろんロッキード事件への関与による政治的打撃である。これで、党内での実力はともかく、自分が表立った役職に就くことができなくなった。

 そして「闇将軍」になってからの、第二の不幸は、85年2月27日、脳梗塞で倒れて入院し、政治的活動が不可能になったことだ。

 その20日前の2月7日、後に首相となる竹下登氏が派内派を立ち上げて角栄元首相に反旗を掲げた。

 そして、倒れる直前に角栄元首相は、パーティーの演説で何と僕の名を挙げて声を張り上げたというのである。

 その話は倒れた翌々日の本会議で隣の議席の二階俊博氏から聴いて知った。二階氏はその会場にいたと言う。

 二階氏は、これでもしものことがあったら「あの言葉は角栄先生の遺言のようなものだ」と言うのである。

 僕は翌日急いで緊急入院した逓信病院に花をもって駆けつけて快復を祈った。

 それから8年も闘病して鬼籍に入ったのである。

 最後の角栄演説の一節はほぼ次のようなものだったと言う。

 「他人(ひと)がつくったものを継承することはたやすいことだ。ゼロから創業することがいかに困難か。あの田中秀征を見てみろ!」この言葉には竹下氏の所業に対する怨念がこもっている。

 私はこの演説内容を正確に知りたいと思っている。この演説を録音したテープも探し出したいものだ。政治的創業者の登場を、この時代は緊急に必要としているのではないか。

2023.12.22