第五回 『ペン蛸のある政治家』
僕は現在もネットのウェブで小論を連載している。きちんと書くと1か月に5~6本は書かねばならないが、なかなかノルマが果たせない。
ネットだと書いて2、3日で掲載可能だが、刻一刻と状況が変転する政局について書くと提出するときに大きな動きがあったりする。
たとえば、最近の菅首相の自民党役員人事について書き終わったところに、役員人事をやらないニュースどころか、菅首相の総裁選不出馬の大ニュースが入る。するとまた最初から書き直しになるのだ。
今はネットに連載しているが、これがかれこれ20年にはなるだろう。その前は経済雑誌に連載していた。ネットと雑誌で40年になるだろうか。その前にそれほど有名でない雑誌にも連載していたので、合わせると50年は越すはずだ。
僕は評論家の佐高信氏と今も親しくしているが、そのきっかけは未だ20代だった彼が経済雑誌の編集者として僕の担当をしていたからだ。その後出版した「自民党解体論」は彼のいた雑誌に連載したものに大幅に書き加えたものだ。
僕は日記を書く習慣がない。立派な日記帳は何度も買ったが、一月が終わらないうちにやめてしまう。残念なことだ。
それに代わるのが雑誌、新聞、ネットの連載だが、ときどき1年か2年の途切れはあるが、50年以上どこかに書き続けてきた。この欄の「寸話寸評」は70年前後に北信濃の北信タイムスに書いていたコラムの名前である。他の町の新聞には「秀征の眼」と称して書いていたこともある。
20代や30代に書いたものは今読めと言われても恥ずかしくて読めない。その当時の自分の未熟さを知っているのは自分だからだ。それに背伸びして書いているところがあると思わず閉じてしまう。
日記を書かないかわりに、長年のコラムはほとんど残っている。雑誌もそうだが、それらをまとめて出版した本も捨ててはいない。長野に僕の本を大切に保管してくれている同志がいるが、すでに30冊に達するらしい。
だが僕は、文章を書いたり評論をすることを自分の職業にしようと思ったことは一度もない。それは今でも同じである。しかし、最近は結果的には書くことに身を助けられてきたんだと思うようになった。
2度目の選挙の時だったが、まだ大学の教官ではなかったとき、届出の職業を「著述業」としたことがある。この恥ずかしさは今でも耐え難いものだ。なぜそうしたかというと石田博英先生がそうしていたからだ。
子供の頃から日記をつけることが不得手だったが、歴史的事件が起きたときなどの感想文を稚拙な文章で書いたものが、いくつか残っている。文章を書くことが嫌いではなかったのだと思う。
政治の場に出てから、必要に迫られて文章を書くようになったが、それが本業だと思ったことは一度もない。
なぜ、積極的に文章を書く意欲を持たなかったか、おそらく政治家にとって必要不可欠なものと思わなかったからだろう。
それに僕のまわりには五明紀春君をはじめ群を抜く筆力を持った友人が多かったからだと思う。いつも彼らには逆立ちしてもかなわないと思っていたし、自分が文章家になる必要もなかったからだ。
五明君はかつて僕の紹介文の中で「ペンダコのある政治家」と言ったことがある。最近はペンダコも薄くなったが、昔はイボのように大きくなっていた。
「文章は配達される演説」と言ったのは僕か彼か不明だが、年をとるに従って、そんな名文句も出なくなってきている。
昔の政治家は石橋湛山元首相に代表されるように驚くほどの読書家であった。それに、政治行動をきちんと日記や回顧録として残している。それほど自分の言動に責任を持っていたのだろう。
確かに、20年経っても30年経っても文章は残り、言動の一貫性を厳しく問われる。
安倍内閣で、集団的自衛権の行使を現行憲法の解釈変更で容認したとき、その決定への 過程では最も重要な内閣法制局の議論の内容を問われた。そのとき法制局長官は「議論を記録しなかった」と言ったのである。しかしこれに対して自民党内からそれを問題化する言動がなかった。
「言葉」の重みがなくなると政治の劣化は目を覆うばかりになる。昔の政治家のほうがはるかに真剣に時代と取り組んだのだと思う。
2021.9.9