第十八回 『「村山談話」が最も印象深い仕事(2)』

 

 「秀征さん、暮れの28日に一緒に伊豆に行ってくれないか」

 武村蔵相が深刻な顔をして頼み込んできた。

 「村山さんが年末伊豆で静養するから、真剣に頼んでみよう」と言う。

 村山首相が辞任する腹を固めているようだったから何とか引き留めよう、というのだ。

 僕は、それまでに何度も引き留めたが、総理の気持ちはなるべく早い辞任で固まっている。行っても無駄だろうと、僕は長野に帰郷した。

 すると28日の夜、電話があった。

 「今、旅館のヤブのような中にいる。村山さんに会ったら、電話に出てくれ」と言う。どうやら記者も何人かついて来ているようだ。その頃の携帯電話は、肩に掛けて持つ大きなもの、声もよく聞こえない。蚊の季節でなかったことが救いだ。

 次にかかってきたのは、村山さんの部屋からで村山さんの声はもう吹っ切れたような感じ。武村さんもついにあきらめたのだ。電話でこれから後の記者会見、総辞職などの日程の相談に変わった。

 14日伊勢の参拝、5日に記者会見をして辞意表明と決まった。次に電撃的に辞めて、報道が知らなければ、村山辞職を好意的に受け止めないからと、それを何人かの与党幹部に漏らす必要があると武村さんは言う。そして「耳打ちする順番を決めよう」と言う。

 当初の自民党の橋本龍太郎総裁が最初であることは即ぐに決まったが、その後に続く人の順番も二人の間に異論はなかった。思惑通り、このニュースは静かに広まった。

 旅館の電話では村山首相の声は大きく、そして弾んでいた。重い荷物をやっと降ろせるという心境だったのだろう。

 実はその前年、参院選投票日の夜、自民、社会、さきがけの三党首会談で、村山さんは辞意を漏らし河野洋平自民党総裁(当時)に後任を要請したと言う。急過ぎた首相交代は不首尾に終わったが、このことはそれほど知られていない。

 ただ、阪神大震災、地下鉄サリン事件など大きなことが立て続けに起き、それに前略で取り組んだ疲れが一気に襲ってきたのだろう。

 その頃、僕は何度か村山さんと会って激励したが、もう泰然として「なるべく早い辞任」の腹を固めていた。

 僕はその頃、村山内閣を第二次石橋湛山内閣と呼んだりしたが、村山さんとすれば、同じく石橋湛山ファンである河野さんに内閣を引き継いでもらいたかったのだ。

 村山さんかその後生気を取り戻したのは、8月の終戦記念日に首相談話を発することであった。既にその2年前、細川護熙首相によって、「侵略戦争」と「植民地支配」という歴史認識は示されていた。

 95年は、終戦からちょうど50年。日本の首相が首相談話として内外にその歴史認識を示すことは極めて重要であった。

 その10年後、20年後、ほぼ同様の趣旨で小泉(純一郎)談話、安倍(晋三)談話が発出されたが、僕は当時から何度も繰り返す必要はないと言っている。

 

 その後村山さんは、最も大きな仕事は何かと問われると即座に「首相談話」と答えている。自らの過去を率直に認めてこそ、ロシアの極悪な侵略行為に対峙することができる。

2023.9.24