第十回 『タバコの思い出』
タバコをやめてから10年になる。やめようと思ったからではなく、やめなければいけなくなったからだ。
福山大学の大学祭のとき、学生が案内した一つの展示室に肺活量を計る器械があったので自分がすすんで計ることにした。
というのは、それまで何かの機会に測定すると、何度も「トランペットを吹いてますか」とか「トランペットを吹けばいい」と言われたから肺活量が並みより多いのだと思ってきた。そう言えば階段を昇ったり、多少走ってもそれほど息切れすることはなかった。
だから大学祭で精一杯息を吐き出すことができなかったときの衝撃は大きかった。
検査してその理由がわかったときタバコをやめる決断に躊躇はなかった。一日50本、50年も喫っていたタバコだが、決めてから一本も喫っていない。自分でもよくやめられたと思う。ただ、一度だけ机の上に置いてあるタバコを喫ってしまったが、禁煙に気がついて口から吐き出した。
ひどかったのは武村正義さんと橋本龍太郎さん。武村さんは一日80本で橋本さんは一日100本も喫っていた。
その頃武村さんに「僕は煙を口から出すけど秀征さんは奥まで吞み込んでいる。本数は僕のほうが多くても喫い方が違う」と言われたことがある。それに武村さんはタバコを僕みたいに短くなるまで喫っていなかった。
橋本さんにも「お互いタバコには気を付けよう」と言われたが、僕は「本数はあなたの半分ですよ」と言ったら、彼は吸い口を僕の前に突き付けてニヤッと笑った。直接喫ってはいないよ、という意味だ。
極端なヘビースモーカーとして有名だった筑紫哲也さんと新幹線で同席したことがある。僕が福山へ行くときで、彼は飛騨の高山に講演に行くとき。僕を見つけた彼は「隣に座ってもいいですか」と言って座った。
この人に会うときはいつもタバコをくわえていたが、一体どれほど喫うのか、いい機会だから黙って数えてみようと数え始めた。
隣に座ったのは小田原あたりだと思ったが、それから彼が名古屋で降りるまで20本近かったと思う。
降りるときに僕は「筑紫さんはヘビースモーカーと言われているけど、ちょっとひどすぎる。喫う量を半分くらいにしたほうがいいですよ」と言った。彼は「だって秀征さんもかなり喫っていたよ」と。「お互い気を付けよう」と言って名古屋で彼は降りた。
筑紫さんが肺がんで亡くなったのはそれから間もなくだった。
僕が50年間、50本近く喫うこともあったタバコは「ショートホープ」であった。最初は「いこい」というタバコだったが、大学の二年の頃だったがフィルター付きのホープが出てそれに替えた。そのちょっと前に20本入りのハイライトが発売されたが、ホープは10本で白い箱が気に入ったからだ。
ところが、最初は害の少ないタバコであったホープがだんだん強いタバコと言われるようになり、止める頃は「一番強いタバコ」になってしまった。
僕はタバコは体に悪いと言われると、冗談半分に、118歳まで生きた奄美大島の人がヘビースモーカーであったことで反論した。だが親しかった筑紫さんの死によって、そんなことも言わなくなった。
タバコの製造はもともと民間であったが、それが国の製造、販売に至ったのは、日露戦争の時だったと言う。僕の実家ははじめ穀物を商う店であり、そこに塩・酒・タバコなどの専売品を扱う、昔から山間地にもあった小売商だ。父の話だと、僕の家は、タバコが専売品になる前からタバコを販売していたという。僕が小学生のときに、古くから売っているとして、専売前の店として表彰されたが、更級郡には二店だけだったという。
長く続いた専売公社から「日本たばこ」に民営化されたのは84年だが、この民営化法案に対して、僕が衆議院本会議で賛成演説に立ったのだ。これは僕のいわゆる処女演説だったのだからタバコにはふしぎな縁がある。
評論家の佐高信氏がことあるごとに引用する当時5歳の僕の娘のタバコ感がある。
家においてあったタバコのケースに、マジックで「タバカシュウセイ」と書いてあったのだ。タバコを喫うシュウセイはバカだと言うことだろう。
振り返ると、タバコが旨いと感じたのは、一年のうちにも数えるほどだった。
そのときの体調や心境が大きく影響するのであろう。しかし、旨いときのタバコはとてつもなく旨かったと今でも思う。
2022.4.7