第四回 『「三時間徹底演説」が政治の原点』

 

 

 僕が自分の政治活動の原点に据えているのは、昭和47年11月に長野市民会館の大ホールで開催した「田中秀征の三時間徹底演説」だ。

 以後、総選挙前に何度か開催しているが、地元では「秀征のマラソン演説」として今なお覚えている人が少なくない。

 招待券で観る映画は真剣に観ないということで、入場料100円をいただいた。50年前の100円だと今はいくらぐらいだろうか。最後には入場料が500円になった。

 演説会の広報は、中央紙並みの大きさで二面、三面が五明紀春君からのインタビュー。一面は僕の顔写真。三カ月前頃から有志が集まって選挙区で配ってくれた。日曜などに集まって配るのだが、配る人がだんだん増えて百人を超すほどになった。

 そして、「三時間徹底演説」というポスターを長野駅から善光寺に至る中央通りに貼りだした。まだポスター規制がない頃だ。費用はすべて友人、同志のカンパであった。

 中選挙区時代の長野1区は定数三人で自民党の二人の有力政治家の指定席。そして残りの一議席は強かった社会党が独占していた。長年の間、全国でも有名な無風区であった。だから、僕が立つということで選挙区では大ニュースであった。

 演説会にどれほどの人数が集まるか、それが同志の間でも街の話でも大きな関心事だったらしいが僕はそれほど心配しなかった。来てくれる人に話せばいいという気持ちは、その後の政治生活でも同じである。

 もちろん大ホールは満杯にならなかったが、半分くらいは埋まったと記憶している。数百人くらいだったろうか。もっと入ったかもしれない。中には明らかに他陣営の偵察者と思われる人もいる。そういう人は目が合うと下を向いてしまうのでわかる。

 会場には立看板も垂れ幕もない。司会者もいないで僕一人が話せばよい。同志の一人が「二時間くらい話したら、横になって話すかもしれない」と演壇の横にゴザを置いていたのは、まじめな配慮だけに笑える。当日の写真にはそれが映っているはずだ。

 その暮の総選挙本番のポスターのスローガンは「新しい時代の突破口を開こう」とすることを密かに決めていた。

 したがって三時間演説の筋は、新しい時代とは何かがテーマ。要するに一つの時代が終わったという時代認識を語り、新しい時代の課題に我々の世代が挑戦しようという趣旨だ。その概要は20代の頃から北海道の雑誌に連載したものをまとめた『落日の戦後体制』の著書に沿うものであった。演説が二時間を過ぎる頃から、会場の雰囲気は目に見えて変わってきた。要するにどんどん盛り上がってきたのだ。二時間半を過ぎると、聴衆が前かがみになってきて、それが会場の熱い雰囲気になってくる。

 時間は残り少ないけど、まだ肝心の主張や決意の表明には至っていない。

 予定より長時間になることを気にしないと心に決めて、とにかく話したいことを最後まで話すことにした。

 結局、四時間半ほどになったのだが、偵察者の他はほとんどの人が帰らなかった。それどころか、終わったらステージの下に集まって多くの青年たちが激励し握手を求めてきた。「できる限りの応援をします」と大声で約束する人もいた。

 選挙区では、このマラソン演説が大成功だったということになった。その評判からか、本番の立合演説会の聴衆は、どこも記録的数字となった。立合演説会は各市町村の選管が主催して全候補が20分の演説をする。各陣営が動員するのが普通だったが、その上に一般の有権者が多数駆け付けたのだ。

 今考えると三時間演説会は生涯の同志の公募のようになった。ここに参加した人たちのほとんどが僕のその後の選挙の主軸となった。後に全国紙に「全国一の個人後援会」と書かれたことがあったが、その強力な後援会をつくった原動力がこの演説会に駆け付けた当時30歳前後の人たちだった。

 

 「三時間徹底演説」は、その後無所属で戦い続けた僕が、その旗印を鮮明にする政治家としての第一歩だったと思う。

 

2021.8.13