復刊に当たって―私を制約した自民党解体論
田中秀征
私が本書『自民党解体論』を集中的に書いたのは、ちょうど五〇年前の昭和四九(一九七四)年、三三歳のときでした。
その前年四七年の暮れの衆院総選挙に私は長野一区から初出馬して一敗地にまみれました。田中角栄ブーム、日中国交正常化で久しぶりに自民党が勢いを増した年でした。
私の選挙区は三人区で当時二人の自民党の有力政治家が戦後一貫して議席を占め、残る一議席は社会党の指定席。全国一の岩盤選挙区と言われていました。
私は選挙前に長野市民会館で「三時間徹底演説」と称して有料講演会を開きましたが、その聴衆が最後まで私の政治活動の一つの軸となりました。
文字通り徒手空拳の初出馬でしたが、「新しい時代の突破口を開こう」と呼びかける私の街宣車が善光寺に向う中央通りを通ると、両側の歩道からマラソンの応援のように多くの人たちが激励してくれました。挑戦一〇年の苦難に耐えられたのはこの熱気が消えることなく続いたからでしょう。本人はともかく、世間からは善戦と評価されたこの選挙の余勢を駆って私は翌年に本書の執筆に取り組みました。
「自由に書けるように」と同級生や若い同志たちは資金を集めて「田中秀征出版会」を立ち上げ、それが本書の発行元となったのです。
『自民党解体論』という書名はいかにも衝撃的ですが、当初から私は良きにつけ悪しきにつけ本書が生涯の私の政治活動を少なからず制約すると感じていました。
本書は、自民党の解体論であると同時に、それ以上に責任政党の再建論でもあります。
「新人よ自民党解体の斧となれ」と書きました。自民党からできる限り世話を受けないで登場する一群の新人が、自民党の腐敗体質、極右体質を切除して責任政党の再建に取り組むよう呼びかけたものです。
私は無所属で何度も落選しましたが、初当選のときは、入るつもりの宮澤派宏池会から自民党への入党や公認申請を強く指示されます。しかし、結果的に私は公認されず「無所属」立候補となりました。実はこの非公認は私の密かに望むところでした。そして当選と同時に党は私を追加公認としました。
初当選の二年後の昭和六〇年、自民党は結成三〇周年を迎えました。私は当時の金丸信幹事長に本書に書かれた自民党綱領の改定を直談判して取り上げられ、幹事長主導で改定の委員会が設置されました。委員長井出一太郎氏、代行渡辺美智雄氏、委員には後に首相となる海部俊樹氏や小渕恵三氏も加わる強力な布陣でした。私はこの委員会で起草一切を任されて新綱領作成に半年も没頭しました。しかし、「憲法を尊重する」という一項などをめぐり右派宗教団体が私を徹底的に叩き怪文書が舞い、党内の一部がそれに呼応して、綱領改定は不本意な結果となり、私は直後の総選挙でまたもや千票台の僅差での落選の憂き目に遭いました。
四年後に復帰して、待望の宮澤喜一内閣が実現。しかし、自民党は構造汚職にまみれて立ち往生し、せっかくの宮澤内閣も真価を発揮することができませんでした。私は、自民党を離党して新党さきがけを結成して「新しい時代の突破口を開く」行動を起こしました。そのときの私の奥に秘めた基本戦略は、人材を集めて再び自民党に乗り込み自民党を解体・再建することでした。折から現状の自民党は指導者も指導理念も色あせて呻吟しています。今まで何度かの本書復刊の誘いに応じなかった私も、少しでもこの状況に対して建設的な刺激になればと復刊に同意しました。
さて、本書にはさまざまな思い出がありますが、「男はつらいよ」の渥美清さんが買って読んでくれたことも忘れられない思い出です。
彼は、私が時々執筆の場所にしていた駒沢通りのカフェの常連で、いつも夜に来て半円型のカウンターの隅で一人で本を読んでいました。
その店の二〇代の店主は今は亡き中野仁資(当時は石堂仁資)君で、本書出版後に渥美さんは彼から買って読み、一言「勉強になったよ」と言ったとのことです。彼がその店で本書を読んでいるとき、私と会って遠くから立って頭を下げてくれたのがうれしかった思い出です。
石堂君は東京の本屋を何十軒も歩いて、本書を置くことを頼んでくれ、私が国会に出てからは秘書としても助けてくれましたが若くして亡くなりました。
石堂君をはじめ多くの人の支援で本書は出版されましたが、既に他界した人も少なくありません。
とりわけ五〇年前に五明紀春君と共に本書出版を主導した高校同窓の山田亨君、写植印刷を一手に引き受けてくれた小中同窓の小山武君にはあらためて深い感謝の気持ちを禁じ得ません。
最後に、復刊の貴重な機会をいただいた旬報社の木内洋育氏には、心から敬意と感謝を申し上げます。
令和六(二〇二四)年二月