第九回 『肉筆へのこだわり』

 

 僕は、ワープロやパソコンと無縁なので、原稿は原稿用紙にペンで書く。そういう人はこの20年ほどで激減して「化石化」しているらしい。それは原稿用紙を売る店がめっきり少なくなったことで判る。近年は大きな文具店でも表に並べておかない店さえある。

 僕は、原稿をFAXで送るから生原稿はそのまま手元に残る。書き下ろしの単行本の原稿はそのまままとめて大事に保存している。

 使用しているペンは、長い間、太い万年筆だったが、近年はサラサという優れものが出て、もっぱらそれを使っている。インクが途切れたりしないのだ。

 原稿用紙も、長い間(50年?)ライフ社のものを使っていたが、FAXで送るときに重なってしまうことがあった。そこで20年以上も前に、何かの記念にいただいた原稿用紙を使ってみた。するとFAXに重なることなく入っていく。この原稿用紙は脇のところに僕の名前が印刷してあるので、送る際には表紙も省略できるのでありがたい。

 僕の文章には、体の調子、頭の調子、心の調子がはっきりと表れる。誰でもそうだと思うが、僕の場合はいささか度が過ぎている。書いた字の巧拙を見ると歴然としている。字がきれいに書けるときは、書いた内容も冴えているのである。ちなみに今は調子が優れないようだ。

 忘れられないのは、東大の二次試験を受験したときのこと。当時の東大の受験科目は文科系も理科系も同じで9科目。だから、文科系に物理の天才もいれば、理科系に大変な歴史通もいた。

 僕は、受験勉強にかなり出遅れていて、夏休みが終わっても手につかない科目がいくつかあった。それは、この欄で書いたように強度の遠視で長時間の勉強に対応できなかったからだ。秋が過ぎても社会科などの遅れは歴然としているので、思い切って独学の人文地理を受験科目にした。だから、僕の合格は無理だと受け取る人が多かったのだろう。自分でもそう思っていた。

 ところが冒頭の国語の試験でその流れが一変した。確か設問の大半は長文の随筆についての感想や意見を問うものであったと記憶している。僕はその文章の意味を明快に理解してあっという間に答案を書き上げた。そのときの字が自分でも驚くほど達筆だったのだ。理由ははっきりしている。前の夜、9時間ほど熟睡したからだ。

 僕は東大受験のとき、先輩のつてで東大駒場寮に宿泊した。学生の大半は帰郷していた時期だが、それでも相当数が帰らないでいた。汚い6人部屋。酒くさく、うるさい。しかし、それなのに熟睡したのは幸運であった。

 僕はこの国語の勢いに乗って、他の科目の試験も乗り切ることができた。

現在、僕の教え子たちは、僕の肉筆へのこだわりに迷惑を受けているだろうか。僕の特別講義の単位認定は、出席日数とレポートだが、このレポートが肉筆で書くことを課している。

 20年以上前の学生はそうでもなかったが、今のパソコンとスマホ時代の学生たちは「読めても書けない」学生が多い。だから肉筆で書くことは不得意だろう。下書きしてきたものを答案用紙に写してもよいが、試験のように一斉に教室でレポートを鉛筆で書かせている。

 

 パソコン全盛の時代にはわざわざ機会をつくっても肉筆で書く必要があるのではないか。これからきちんと日本語が継承されるのかという心配はつのっている。

2022.2.24