第八回 「福山」との三つの縁 

 

 福山大学に通って既に40年を越している。勤続30年を機会に正教授を辞したが、その後は客員教授として特別講義をしている。今はコロナ禍で対面の講義が限られているのが残念だ。

 大学のある福山市は広島県の東にあって岡山県と接している。広島県の大半は昔の安芸の国なのだが、福山地方は「備後」と言って吉備の国の一角を占めてきた。だからか、広島と比べるとカープファンの熱気も多少は違って感じる。

 福山市は、県内第二の都市で、西日本では知らない人はいないのだが、東京などでは知名度で、福山をはさむ倉敷と尾道に遅れをとっている。

 実はこの福山は、どういうわけか僕と実に深い縁を持つ地域となってきた。

 一つの縁はもちろん福山大学だが、これはあくまでも創立者の宮地茂氏との個人的な縁である。僕は、海のない長野県で生まれ育ち、小学校6年の修学旅行で初めて海を見た。だからか瀬戸内海には子どもの頃から憧れのようなものがあった。瀬戸内海を見て、瀬戸内海の魚を食べられるというのが決め手だったのかもしれない。

 さて、もう一つの縁は、学生時代に本郷西片町の福山藩邸跡に住んでいたことだ。旧藩邸の番地は、僕の住んでいた頃は「いろはにほへと」に区割りされていて、僕の下宿は「ほ」の区域にあった。

 福山藩の藩校は「誠之館」と言ったが、その名前は現在も福山誠之館高校に受け継がれている。

 ところが、本郷西片町、旧福山藩江戸屋敷の一角に、現在も「誠之小学校」が存続している。僕が五明副塾長と下宿していた家はその誠之小学校の目と鼻の先にあった。そこに住んで、「ここがあの阿部正弘が住んでいたところか」との想いにふけったこともある。彼は27歳の若さで幕末に老中首座を務めた。

 その西片町界隈は、大震災でも戦争でも焼かれなかったのだろう。近くには、忠臣蔵の時代にも江戸城の畳を納入した畳屋も残っていた。また近くには中村座という寝そべって旅芝居を見るような芝居小屋もあった。 

 そして、第三の縁は、福山が僕にとって特別の人である宮澤喜一元首相の選挙区だったということだ。

 昭和三〇年代の末、自民党の若手政治家に「ニューライト」と呼ばれる一群の政治家に注目が集まりつつあった。彼らは高度成長による就業構造の劇的変化に警鐘を鳴らし、より雇用者に、より都市部に政治的関心を注ぐ必要があると説いた。その代表選手が石田博英氏(石橋内閣官房長官)と宮沢喜一氏であった。

 僕が国会に出てから、宮沢氏と行動を共にしてきたので、福山大学もその縁だと思っている人も少なくないが、これは全く関係がない。僕は宮沢氏が広島県人であることは知っていたが、福山が選挙区だとは知らなかった。

 僕は初当選の時期まで宮沢氏と会ったことはなかったが、その後は本人はもとより福山の後援会の人たちとも親しく交流するようになった。

 僕が「つくづく福山と縁があるんです」と言うと、宮沢さんは「僕だって信州とは縁が深いんだ」と言った。母親が信州人だということに加えて、父親も一時期長野県庁に勤めていたことがあるらしい。

 ところで、福山の知名度が高くならないのは、街の構造も影響していると思っている。 新幹線で通ると福山城は駅の隣にある。駅が城域の中につくられているのである。長野駅と善光寺は3キロぐらいだろうか。駅と善光寺を結ぶ中央通りが目抜き通りになっている。 福山駅と福山城が一体なのは、長野駅と善光寺が重なっているようなものだ。やはり駅と主要な観光地が重なっていると、折り返す目抜き通りが成り立たない。

今、福山城は令和の大普請をしている。それに海には鞆の浦という必見の歴史的観光地もある。何とかもっと多くの人に訪ねてほしいものだ。

 

 今は、福山駅に降り立つと、「先生、お帰りなさい」と声をかける人も少なくない。おそらく、僕が福山に住んでいると思っているのだろう。面倒だから「ただいま」と返すこともある。

2022.1.25