第十一回 『土井たか子さんのこと』

 

 元衆議院議長の土井たか子さんが他界して8年ほどになる。彼女は強力な野党第一党時代の社会党の委員長も務めたが、女性だからではなく、それだけの見識や力量を備えていたからだ。

 1993年の細川護熙政権の樹立過程。細川さんが小沢一郎氏との間で人事の大枠を詰めたと、私を東京プリンスホテルの一室に呼んだ。小沢氏が示した人事構想の中に「土井たか子衆院議長」が真っ先に出てくる。そのとき僕は驚いたが、小沢氏の着想に敬服もした。

 衆院選直後、これから特別国会が始まる。首班指名選挙が行われる前に、うるさ型の土井さんを棚上げにしよう、と小沢氏は思ったのもかもしれない。その後、土井さんは、日本初の女性の国会議長として圧倒的な存在感を示した。

 土井さんについては、僕にもいくつかの思い出がある。一番大きなことは、彼女が議長を辞めてから党に帰るときのことだ。

 村山富市首相(当時)から僕は、「土井さんを再び党の委員長になってもらいたいから、あなたに口説いてほしい」という依頼を受けた。それは、村山さん自身の仕事ではないか、党を挙げてお願いしたらどうかと言うと、「そうやって頼んでもどうしても引き受けない。」「どうして他党の僕がそんなことができるのか」と言うと、「社会党の人たち、特に土井さんのまわりがそう言う」と。

 結局、衆議院議長公邸を訪ねて僕がお願いすることになった。彼女は「秀征さんが何しに来たのよ」とけげんな顔をした。

 その場で返答はなかったが、土井さんは党首を引き受けることになった。これには後日談がある。それから3年後だったが、僕がもう議席を失っているとき、土井さんが六本木にあった事務所を訪ねてきた。そして、「バレンタインにチョコレートをあげるのは初めて」と言いながら、長くて大きいものを僕にくれた。そして僕に「この前は、あなたの顔を立てて社民党の委員長になったのは覚えているわね。その借りを返してもらいたい。」と。要するに都知事選に立てと言うのだった。僕は地元の長野県をはじめいくつかの県から表向き、あるいは打診をされてきたが、「中央政治から目をそらしたくない」と断ってきた。地方自治はそれに関心や意欲がある人にやってもらえばいいことだ。「知事職は関心のない人でも務まるんですか」というと彼女はそれ以上攻めなかった。

 土井さんは「護憲の鬼」という感じであった。僕は「憲法は最大限尊重すべきだが、時代の変化で改正が必要になったら改正してもよい」と考えてきた。土井さんには、僕は「護憲」というより「尊憲」だと言っていた。

 宮沢さんは、「社会党という政党は、無かったらわざわざつくらなきゃならないほど大事な政党だ」と言った。ただその後に「僕は入らないけどね」とも言った。

 おそらく僕と同じように社会党を見ていたのだろう。

 社会党は「非武装中立」を標ぼうしてきた。僕は、そういう絶対的平和主義者が多ければ多いほど戦争は起こらないと信じてきた。だから絶対的平和主義者に敬意を表してきた。

 宮沢さんと土井さんと僕の3人で、パネルディスカッションで話をしたことがある。宮沢さんは土井さんの発言を実に真剣に聴いていたのが印象的だった。

 こんな話を思い出した。土井さんから突然食事の誘いを受けた。「秀征さんの好きなカキフライの店を見つけた」というのだ。赤坂の小さな店だったが、「おいしければいいね」と不安そうだった。

 ただびっくりしたのは、4人用のテーブルの斜め前に彼女が座るのである。コロナ禍ならともかく、ふつうは正面に座るものだが、恥ずかしいのだろうか。私はそんなに食べないからと大きなカキフライを一つ僕の皿に移した。

 社会党は社民党となり、現在は福島瑞穂さん一人の政党になっている。福島さんも土井さんの何かを引き継いで健在である。

 

 土井さんがもし存命なら90歳。宮沢さんは今年102歳になるはずだ。

2022.4.19