第十九回 『藤井君の八冠制覇に想う』

 

 将棋の藤井聡太君が、10月12日、王座戦に勝利し、前人未到の全冠8タイトルを制覇した。主催紙の日経はもちろんだが、新聞は一面トップでこの偉業を伝え、テレビも特集を組んで讃えた。

 将棋の8タイトルの半数は二日制だが、王座戦は一日制だ。この棋戦は挑戦者をトーナメントで決めるので、挑戦権を得ることが難しい棋戦、最後に残ったのもそれが一つの理由だろう。

 ところで、朝、対局室に藤井君が入室したとき、一瞬立ち尽くして呆然としたことに気がついただろうか。報道は気を使って、その小さな失敗を指摘しなかった。

 将棋のタイトル戦の不文律は、挑戦者は先に入室して下座に座りタイトル保持者を待つことになっている。

 だが、藤井君が入室した時すでに永瀬拓矢王座は入室して座っていたのである。

 藤井君は「しまった」という顔をしたが、もちろん誰もそれを咎めなかった。少なくとも僕は、今までに挑戦者がタイトル保持者を待たせた例を知らない。

 実は、藤井君のこの種の図太さを僕は目の前で実感したことがある。

 2年前、棋聖戦第三局が沼津で行なわれ、渡辺明名人(当時)が、藤井棋聖に挑戦した時。僕はその初手に立ち会う機会を得た。前年に藤井君はこの棋戦で初タイトルを得ていて、この対局は初の防衛戦であった。

 ふつう報道陣は、写真を撮ったりして、両者が交互に一手を指した後に一斉に退室する習慣だ。だから対局開始のお決まりの儀式のようなものだ。

 渡辺さんは、挑戦者とは言え、最高峰の「名人位」にあった。だが、棋聖戦では挑戦者だから先に入室して下座に座った。

 しかし、なかなか藤井棋聖は入室すらしない。室内で待つ人は慣れない正座で待ちきれなくなっている。僕自身もそうで足を組みなおしたりしてがまんしているが、藤井君入室まで持つかどうか不安になっている。参列者も同様で、みんな変な動きをしてがまんしている。

 ようやく、藤井君が入ってきて一瞬ほっとした空気が流れた。

 ふつうなら、ここで、藤井君は最高峰の名人に上座を譲ろうとして遠慮され、恐縮しながら上座に着くのが通例だが、彼はそんなことはしない。真っ直ぐに上座に座ったのだ。みんな「アレッ」と思っただろう。だがその分我々は時間が短くて済むので歓迎だ。

 しかし、みんな腰や足を動かして必死にがまんしているのが判る。僕も同じだ。

 駒が盤上に並べられて、渡邊名人がすぐに初手を指す。ここで藤井君が刺すと、全ての儀式が終る。もう我慢の限界である。

 ところが、藤井君の手は駒に延びずに傍らの「伊右衛門」のボトルに伸びたのだ。

 僕の前に座る主催者のサンケイの社長が一瞬倒れそうになっている。僕はとっさに無断でそばにあった座ブトンを二つに折って彼の腰の下に挟み込んだ。その一瞬後、藤井君が初手を指し、報道陣は退散、みんな足を投げ出した。社長には、座ブトンを挟んでもらわなかったらひっくりかえっていたと感謝されたが、実は自分もその行動があったから助かったのだ。

 藤井君とは、初防衛の記者会見の後に、ばったり、ホテルのエレベーターの前で会ったが「おめでとう」、「ありがとうございます」で終った。

 あの朝、対局室に座り、初手が指されるまで、30分くらいだったか。年配者が長時間、慣れない正座をし続けることがいかに大変なことか、彼は知らなかったのだろう。知っていれば名人が初手を指したあと「伊右衛門」より駒に手が伸びたはずだ。

 この二つのエピソードは、藤井君の図太さをもの語っているのだろう。将棋のことだけを考えているのだ。そして、その図太さが対局相手の心境をかく乱してしまうのかもしれない。

 今回の敗着となった「5三馬」の指し手は、ライブで観ていた僕でさえ「アレー」と声を上げてしまった。八冠を崩すのは永瀬だろうと予想する人が大半だ。素人にも、永瀬勝ちとわかる局面で逆転したのは、藤井君のメンタルの強さということだろう。

 いずれ藤井君は一つ一つの将棋の作法も学んで、名実共に棋界の最高峰となるのだろう。

2023.10.20