第十四回 『石橋湛山没後50年』

出でよ、単騎出陣の志士

 

 この4月25日で、石橋湛山元首相の没後50年を迎えた。それは同時に、私の政治活動の50周年でもある。

 石橋先生は50年経ってもその存在感は大きく、その著書は多くの人に読まれ、毎年のように新しい伝記が本屋の店頭に並ぶ。

 周知のように、石橋湛山は、昭和31年の12月23日に首相に就任、言論人で初めて、私学出身で初めてという異色の宰相として「神武以来の人気」(当時の三木武夫幹事長)を博したものの、翌年病いに倒れ、2月23日に無念の退陣に至った。それでもなお、「理想の首相」を問われると多くの人が彼の名前を挙げる。

 私は、残念ながら一度もお会いしたことがない。何度かお会いする機会はあったが、自分の妙な理由で断ってしまっていた。

 石橋内閣の石田博英元官房長官、同じく井出一太郎元農相、そして一匹狼の宇都宮徳馬代議士らである。病床を見舞う時に声を掛けてくれたのだが、後ちに思うと、周りがもう長くはないと察知していたからだろう。

 私が切角の誘いを断ってしまったのは、実に勝手な理由からだ。

 私が衆院選に初めて立候補したのは、昭和47年(1972年)の12月。湛山先生が鬼籍に入ったのは翌年の4月25日。要するに、私は「バッジをつけて見舞いたい」と生意気なことを考えていたのである。

 候補者なら当選しないと思って立候補する人なんていない。私の立つ長野1区が、自民2、社会1の岩盤選挙区でも頑張れば当選できると信じていた。

 実際、この最初の選挙でも、善光寺に至る中央通りの両側には、多くの人が人垣をなして手を振ってくれた。それでもわずか2万2千という得票であった。ところが僕の落胆とは違い、世間は徒手空拳候補の善戦と讃えてくれた。当選ラインが4万ほどだから泡沫とは言われなかった。

 だが、その4カ月後に石橋湛山元首相は鬼籍に入ってしまった。

 私は子供のころから石橋先生を尊敬してきた。それは、佐高信氏の「湛山除名」(岩波現代文庫)でも冒頭で触れられている。

 石橋先生の一番弟子と言えば、石田博英元官房長官だが、石田先生は自分の大きな写真に「湛山先生の孫弟子、田中秀征君へ」と書いて贈ってくれた。

 その私は、もう長い間、石橋湛山記念財団の理事を務めている。湛山先生の最大の特徴は、単騎出陣を厭わないところだろう。時務に臨んで、単騎出陣する志士によって新しい時代のとびらは開かれるのだ。そんな時機がもう到来していると思う。

 

2023.5.28