寸話寸評

 塾長が思い出すこと、感じることなどを本欄で綴ることになりました。どうぞ注目して下さい。

ご挨拶

 

  塾生諸君からの要望もあり、「思い出すこと」「思い出す人について」、あるいは「現在の時局について」所感を書くことにしました。

 昔、三十歳前後の頃、北信濃の地域新聞に「寸話寸評」と題してコラムを書いていたことがありますが、そのタイトルをまた使いたいと思います。現在、朝日新聞と毎日新聞のウェブサイトに連載していますが、本欄では力を抜いて座談のつもりで書きます。一読いただけると幸いです。                                                                                                                田中 秀征

第一回   「時務」という言葉

 

 かつて、一緒に自民党を離党して新党さきがけをつくった同志の一人にこう言われたことがある。

「国会は511人対1人という感じだね。」

 すぐには意味がわからなかったが、その1人は私だという。衆議院議員の総数が512人の中で私だけが違っていると言う。

「革新政党も含めてなのか?」と聞くと、

「そうです。」と言う。

どこが違っているのかと聞いても笑っていて答えない。とにかくそんな感じだと言う。

 本欄を書くことになって、近くハマコーさんについても書こうと思い、彼の『たまには誉めてやる』という著書をめくってみた。実は出版当時は読んだ記憶がない。

 そこには私について書いたこんな一節があった。

「万が一、わが国が危急存亡の時、田中くんに総理になってほしいとの声が政界で起きるかも知れない。」「だが、もしそうなったときには、お国のために身を削ってでも尽くしてほしいと願っている。」

 他ならずハマコーさんの言葉だからびっくりする。彼は私には野望がないと断定しているが、前述の同志もきっとそう言っていたのかも知れないと思った。

 ただ、私は自分がどう見られているかについてあまり考えたことはなかった。最近になって過去を振り返るなかで自分を客観視する機会もあるようになった。

 私は子供の頃から政治に関与する方向に何となく近づいてきた。政治に関係した人は私の周りに一人もいなかったが、敗戦から復興へと進む時代環境がそうさせたのだろう。それに恩師、友人、郷党の人々もそんな私を受け入れて応援してくれていた。

 20代の頃、当時自民党代議士であった宇都宮徳馬氏に「時務を識るは俊傑に在り」という色紙をいただいた。

 私はこの「時務」という言葉に強い衝撃を受け、身震いしたのを覚えている。「これだ」と思ったのだ。自分はそのために政治に関与しようとしていると自覚した。

 この言葉は三国志に出てくる。「時務」とは文字通り、時の務め、時代の円滑な展開のために、その時点で必要不可欠な務めと理解している。時代の深奥からの切なる要請と言ってもよい。

 

従手空拳の私はもちろん組織も後援会もなかった。それなのに私が高校時代から尊敬する教育者である花岡直一先生に後援会長をお願いした。先生はそのとき

「君は時代が必要とする政治家になると信じて後援会長を引き受ける」と私に言った。

「時務」に関与し、それを果たすことに務めると期待してくれたのだ。身の引き締まる思いであった。

 時代の望ましい進展を妨げる石が前方に横たわっていれば、それが大きな石であれ、小さな石であれ、誰かがどかさねば前に進めない。私はそう心得てきた。政治が「時務」をきちんと果たしていれば二度にわたる世界大戦も起きなかった。

 

「時務」の何たるかを識ることが政治家にとって必須の要件だと今も信じている。

 

2021.5.10

第二回 「遠視のメガネ」

 

この間、薄暗れどき、横断歩道の途中で50代ぐらいの紳士に声を掛けられた。

「先生ですよね?明日出られますか?」

何のことか全くわからない。

「えっ?」と言うと、

「明日は日曜だから家中で先生がテレビに出るの楽しみにしてるんです。」

「明日は出る予定ではありません。」と言うと、

「そうですか。」と残念そうだった。歩きながら、

「よくわかりましたね。」と言うと、

「信号待ちのとき、ひょっとしたらと思ったもんで。何となく雰囲気で。」

 僕は外ではメガネをかけていない。それに今は大きなマスクをしている。いつも会っている人でもわからないときがあるはずだ。

 僕のメガネは遠視のメガネ。眼科医から「外ではかけてはいけない」と言われている。特に階段を降りるときは要注意とのこと。確かに外でかけると遠近感覚がおかしい感じがする。「気付かれたくないからメガネをはずしているんでしょう」と言う人もいるが、そうではない。それに僕はそれほどの有名人ではない。

 僕のメガネ歴は浅く、50代に入ってからである。だから選挙ポスターはほとんどがメガネ無しの顔。そのほうが今でもなじめるという人が少なくない。

 子どもの頃から視力が強く、遠視メガネを初めてかけたときも、もちろん近眼ではないから視力は1.5以上であった。

 大病したことも、保険を使ったこともないというのが自慢だったが、一度は徹底的に体を検査してみろと周りが言う。それで50を過ぎた頃、国立病院で23日の大検査をしてもらった。

 そのとき、リーダーをしてくれたのがベテランの女性眼科医の先生だった。僕が、「眼だけはいいんです。」と言うのに、強引に精密な検査をしてくれた。

「極度の遠視です。それにかなりの乱視でもあります。」と言われた時は、本当にびっくりした。それ以上にびっくりしたのはその次の言葉だった。

「よく高校や大学の試験が受かりましたね。」と言う。

 当時ももちろん、眼精疲労という言葉は知っていたが、そんなに深く考えたこともない。

「この眼では、一時間以上は本を読んだりできないはずです。」と言う。

 言われてみれば、確かにその通りでとても長時間の勉強に耐えられない。自分では怠け者だからそうなんだと考えてあまりそういう話をしなかった。一度眠ったら8時間以上「死んだように眠る」と言われていた。極度の遠視が原因とは知らないから、熟睡することはいいことだと思っていただけだった。

 昭和20年代の信州の小さな小学校での眼の検査は、周知の通り、担任の先生が竹の棒を持って、大小さまざまな平仮名を指して、その文字を読ませるだけだ。遠視なぞわかるはずがない。それと、坊主頭にDDTをふりまいてノミやシラミを退治したり、木づちで膝を叩いて脚気かどうか調べれば終わりだった気がする。

「だまされたつもりで遠視のメガネをかけてみて下さい。」

その先生からそう言われ、だまされたつもりでメガネをかけて本当に驚いた。生まれてから驚きのベストスリーには入るだろう。一日メガネをかけて一晩眠って起きた朝、すべてが理解できた。頭が鮮明で身が軽く、疲れがない。大仰に言うと、生まれ変わってきたような気がしたのだ。もし、あのまま年を経ていたらどうなっただろうと思う。

 この検査では、もう一つ私が知らないことがわかった。

 主治医の話では、私の頭の写真を持って、レントゲン技師が走って来て、「この人は何をしている人ですか?」と聞きに来たという。それは、「この年でこんなに右脳が大きいとは」と驚いていたという。このことも自分は知らなかったし関心もなかった。

「長時間の勉強に耐えられないから集中力や直感力は養われたでしょうね。」

先生からプラス面も聞いたのでほっとした。

 正直言って、そんな眼の異常を知る前は、人間はこんなに疲れるものなのか、それにみんな耐えて元気に生きているんだと思っていた。読書が続かないのは、自分の怠惰な性格によるものだと思って人には話さなかった。

 一昨年に免許証を更新した。そのときに眼の検査をしたが、「眼鏡をかけてもかけなくても同じですよ」と言われた。「年を取るとそうなるんですよ」と言う。だが、細かい字を読むときは明らかに違う。眼鏡のはしに「老眼」を入れてあるからだ。

 時々、もしも子どもの頃から遠視だと知り、対応していたらどうなったかを考えてみる。もちろん知っていた方が良かったと思うが、それを知らずに来たことにも良かったことが少なくないと思ったりする。

 

 老後に読もうと、私は若い頃から書物を買いためてある。買っただけで読んだ気になる変な性格だが、50代以後になって読書量は増えているのではないかと思う。それも遠視の眼鏡のおかげだと思っている。

2021.6.29

第三回 藤井聡太君の対局に立ち合う

 

 

72日(土)に、沼津の御用邸で行われた将棋の棋聖戦第三局の対局開始に立ち合って、ナマの藤井聡太君に初めて会うことができた。

 対局室は茶室風の和室。9時の対局開始20分前に、立合人やメディアの人たちが位置に付き、対局者の入室を待つ。

 タイトル戦では、挑戦者が先に入室して下座に着くのが不文律。挑戦者が座ってからタイトル保持者が殿の間を背負って上座に着く。

 挑戦者の渡辺明名人が入室して、扇子などを置くと、しばらくして藤井棋聖が登場。意外に背が高くひょろひょろした感じ。現在、最強と言われる名人を前にして臆するところがない。先手の名人が7六歩と初手を指して、すぐ藤井君が指すと思ったら、お茶に手が伸びた。前日、講義後福山から駆け付けたから寝不足。そこへ既に30分近く正座を続けているから足のしびれががまんの限界。斜め前にいる主催者のサンケイ新聞の社長が腰を上げたり下げたりして限界を越えたようだから、腰を上げたとき、そばにあった座布団を折って間に押し込んでやった。

 両者が一手ずつ指したところで、正立合人のプロ棋士と記録係を残して全員退場となる。

 

 僕が初手に立ち合うのは、沼津での対局(棋聖戦五番勝負の第三局)を提案したことによるのだろう。棋聖のタイトルは一昨年まで有名な羽生善治。一昨年に渡辺に奪われ、昨年(コロナのため東京開催)渡辺が藤井に奪取された。

 さて、例年なら、大盤解説会場を設営して、多くの人が集まり、プロの解説を聞いて楽しむのだが、コロナのため昨年からそれがない。

 そもそも、僕と沼津との縁は、大学時代に寮生活を共にした大の親友が沼津の名刹の住職をしているからだ。

 沼津にはかつて若山牧水が住み、彼の寺に墓がある。それに彼の音頭で若山牧水館がつくられ彼が館長をしている。

 実は、対局が終わるのを待たずに帰京するつもりだったが、ちょうど熱海の土石流の日。沼津も大雨で新幹線も不通になった。

 友人は牧水館の中で僕が対局を観られるようにはからってくれたので終局まで観戦することができた。

 結果は、藤井棋聖が三連勝してタイトル初防衛ということになった。

 印象的だったのは藤井の持ち時間の使い方だ。渡辺が1時間近く残しているのにその10分の1の時間もない。最終盤になって残り3分。それから正確に指して勝ち切った。終盤まで渡辺有利と思ったし、画面に表れるAIの評価も渡辺有利が長かった。しかし、対局が終わってからの渡辺の感想は「ずっと押されていた」というのだから驚く。それなら〝読み“はAIより渡辺が上で、その渡辺より藤井が上ということになる。

 二人に会ったり、話したりすることは全く期待していなかったが、幸運にも偶然二人と言葉をかわすことができた。

 対局が終わってからホテルで藤井君の記者会見があり、僕もそれに加わって聞いた。終わってからエレベーター前で偶然に会ったのだ。僕が

「おめでとう」と言うと、

「ありがとうございます」とテレた顔で言葉を返した。僕がエレベーターの同乗を遠慮したから、ただそれだけのことだ。しかしナマ聡太に会って言葉をかわした喜びは大きい。

 おまけに翌日、新幹線が動いて東京に向かったら、何と渡辺名人と乗り合わせたのだ。席に座っている彼に、

「ごくろうさん。残念でしたね。またがんばって下さい」と言うと、

「ありがとうございます。」と笑顔で言葉を返した。彼とは沼津で何度か会って話したことがある。彼の奥さんはマンガ家で、彼の日常を面白おかしくマンガにしてしまうらしい。

 

僕が沼津になじむのは、親友がいるからというばかりではない。尊敬する石橋湛山先生の選挙区の中心だからだ。

 沼津の海岸には千本松原という絶景の松林がある。ここから見る富士は随一と地元の人たちは言う。

 その松林の中に、湛山先生が地元に帰ったときに泊まったり、会合をしたりした「沼津倶楽部」が明治に建てられた姿を残している。国の有形文化財である見事な茶室で、ここが一昨年までは棋聖戦の対局場となってきた。

 ここには立派なホテル、レストランが併設されているが、湛山ゆかりの社団法人沼津倶楽部は、やはり友人が理事長を押し付けられている。

 

 この千本松から湛山先生は世界や日本の将来を考えて富士を見ていたのか。この椅子に湛山先生は座って政権構想を練っていたのかと考えると感慨無量のものがある。一年に一度沼津を訪ねるのは僕の楽しみにとなっている。

2021.7.12